コラム
「一日一題」山陽新聞夕刊掲載
文:菅原直樹
身近な人の死を経験してから夜に見る夢の質感が変わった。28歳で父親をがんで亡くした。それから繰り返し見るのが、父親ががんに冒されながらもしぶとく生きている夢だ。目覚めてからも父親の気配を感じて部屋を見回してしまうほど、その夢は現実味を帯びている。
つくづく夢は不思議なものだと思う。馬鹿にできない。ぼくは、現実で起きたことが「実際に起きたこと」で、夢で起きたことが「実際に起きていないこと」だとは、全く思っていない。
例えば、幼稚園児の頃に飼い犬がたまに人の言葉をしゃべったと記憶しているが、現実的にそんなことはありえない。おそらく当時見た夢なのだろうが、33歳となったぼくの記憶では幼稚園児の頃の夢も現実もリアリティーの強度は同じくらいだ。当然、その頃は夢と現実で明確な線引きがあったのだろうが、時間がたつに連れ、その境界は曖昧になってくる。もはや何が実際に起きたことで、何が実際に起きていないことかはどうでもいい。ただその記憶がもたらす感触があるだけだ。
介護職員として老人ホームで働いていると、既に亡くなった夫を捜す認知症のおばあさんに出会う。記憶障害によって夫が亡くなった事実を忘れているのだろう。しかし、ぼくは、そのおばあさんは夢の中で毎晩のように夫に出会っているのではないかと思う。夢があまりに現実味を帯びて、目覚めても夫がいると思い込んでいる。
人は長生きをすればするほど、何人もの大切な人を失っていく。父親を亡くしただけでこれだけ現実味を帯びた夢を見るのだから、老人になった時、ぼくはどんな夢を見るのだろうか。夜中の老人ホームの廊下を大切な人を求めてさまよい続けるかもしれない。現実なのか夢なのか、そんなことはどうでもいい。周囲の人はどうか、ぼくの物語に耳をすませてほしい。